盛岡の中心部では「仁王」という文字をちょいちょい見かけます。代表的なのが、盛岡市立仁王小学校です。
他にも…
仁王幼児公園・仁王幼稚園などがあります。マンション名・店名に「仁王」が入っていたりもします。
しかし…
「仁王」という地名もなければ、近隣に「仁王像」が存在するわけでもありません。
南岩手郡仁王村から
廃藩置県のあと、現在の盛岡市中心部は「南岩手郡仁王村」になりました。
1889 (明治22) 年、仁王村・上田村 (一部)・仙北町村 (一部) など、いくつかの村が合併し、盛岡市が誕生しています。
明治初期に創立の仁王小学校の場合、当初は仁王村の学校だったことになります。
では…
なぜ「仁王村」になったのでしょう?
仁王堂があった
現在の中央通りあたりに「仁王堂」を有する古寺があったといいます。
しかし、周辺に侍町を作るため、江戸の寛文期 (1660年代) に廃されました。その後、仁王像などの仏像群は、東楽寺 (現在の玉山地区) に移されています。
これが「仁王」の由来になります。
侍町は「仁王小路」と呼ばれました。その中で「大仁王小路」と呼ばれたのが、盛岡市立桜城小学校前の通りです。
ちなみに「桜城」という地名も存在しません。
かつて、盛岡藩士の乗馬練習所「仁王馬場」があったといいます。その跡地に明治後期、開校しています。
そこの桜が美しかったことから、「桜城」の名前が付けられたようです。
釜石に製鉄所を開いた、盛岡藩士・大島高任の生家もこのあたりでした。
そして…
藩士達の二男・三男が独立していき、「仁王小路」の周辺には「仁王三小路」「仁王新小路」などが作られていきます。
市制施行後も「字仁王」「仁王町」など、地名として残っていたようですが、徐々に消えていきました。
ちなみに「仁王新小路」は「仁王新町」となりましたが、現在は、本町通2・3丁目 ~ 中央通2丁目の一部になります。
旧四ツ家町の「大智田中地蔵尊」裏から、中央通り (盛岡さんさ踊りパレードのゴール地点) までを結ぶ通りになります。
※ 大智田中地蔵尊について
この通りには、現在も「仁王新町公民館」があり、「仁王新町町内会」が存在します。
30年ぐらい前でしょうか…
小学生の頃、この公民館で、仁王小・桜城小合同で「さんさ踊り」を踊った経験があります。
1週間ぐらいみっちり練習させられ、当日は酒臭いベロンベロンのオッチャン達に小馬鹿にされまくり、子ども達全員ブチ切れでした。
あれは一体、何の会合だったのでしょう…