第101回
全国高校野球選手権
岩手大会
本日、決勝戦でした!
花巻東高校 vs 大船渡高校
メジャーリーガー 菊池雄星&大谷翔平の母校と、令和の怪物 佐々木朗希を擁する高校の対戦ということで、今年は例年以上に大盛り上がり!
結果は「12対2」で、花巻東高校の勝利!
令和初の甲子園出場を決めました!
近年、岩手が生んだの平成・令和の怪物たちが大活躍!岩手の野球熱は一気に高まりました!
実は岩手(盛岡)出身、明治・大正・昭和の怪物もいたんです!
久慈次郎 (くじ・じろう)
日本野球黎明期のヒーローで、悲運の名捕手。
1898(明治31)年、盛岡市加賀野生まれ。生家跡は小さな公園(上の写真)になっています。旧制盛岡中学(現盛岡一高)で野球を始め、早稲田大学に進学。
卒業後は函館水電に勤めながら、函館太洋倶楽部(函館オーシャン)に所属。1927(昭和2)年には運動具店を函館市内に開業。店主として10人近くの従業員を雇う企業家でもありました。
1931(昭和6)年と1934(昭和9)年、来日したアメリカ大リーグ選抜チームとの日米野球大会のために結成された全日本チームに召集され、捕手兼主将に選ばれます。
この時のチームが母体になり、本格的なプロ野球チーム「大日本野球倶楽部」(後の東京読売巨人軍)が誕生します。
久慈は破格の待遇で入団を誘われますが、その申し出を断ります。その頃、函館大火により、市が壊滅的なダメージを受けていたためです。
久慈はプロ野球には身を置かず、アマチュア野球の発展に貢献しようとします。しかしながら、東京読売巨人軍の初代キャプテンとして久慈の名が記されています。
函館復興に心血を注いだ久慈を政治の場にという声があがります。本人は乗り気ではなく、積極的な選挙活動を一切行わなかったものの、函館市議にトップ当選。
1939(昭和14)年8月19日、選手兼任監督として臨んだ、札幌市円山球場での試合で悲運が訪れます。
1対2とリードされて迎えた7回、フォアボールで一塁に向かう際、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、飛び出した二塁走者を刺すべく投げられた相手捕手のボールが右のこめかみを直撃。
久慈はホームベース上に倒れ込み、そのまま動かなくなります。病院に搬送されるも、2日後に帰らぬ人となります。40歳という若さでした。
久慈の棺を乗せた列車が札幌から函館に向かうと、停車駅ごとに熱心な野球ファンが詰めかけたといいます。
〇 久慈賞
都市対抗野球大会の敢闘賞です。敢闘精神あふれる選手に与えられます。1947(昭和22)年の第18回大会から設けられました。久慈の闘志あるプレーを讃え、その名前が付けられました。
〇 野球殿堂
日本のプロ野球などで顕著な活躍をした選手・コーチ・監督など、発展に大きく貢献した人物の功績を称えるために、1959(昭和34)年に創設されました。久慈が第1回の殿堂入り選手になりました。