「西日本豪雨」から1年、「九州北部豪雨」から2年になります。そして今週は、九州南部を中心に、記録的な大雨が降りました。
遠い地域の話だけではなく、3年前の「台風10号」では、盛岡市の隣の岩泉町にて、大雨で川が氾濫し、高齢者施設に濁流が流れ込むなど、大きな被害が出ました。
「川の街・盛岡」は、藩政時代より多くの水害に見舞われてきた地域です。
中津川治水碑
1912 (大正元) 年11月9日、市内を流れる中津川の治水工事が完了したことを記念し、「下の橋」付近に建立されました。
盛岡市中心部には3つの川が流れています。
① 北上川
② 中津川
③ 雫石川
この3つの川は、盛岡駅近くで合流します。
下の写真が実際の場所です。
明治43年の大水害
1910 (明治43) 年9月、市内全域が浸水する大水害がありました。この年は日本全国で水害が相次いだようです。
この年の8月から9月にかけて、北上川流域に3つの強力な台風が相次いで襲来。
特に8月末から降り続いた雨の影響は大きく、中津川の最高水位が4メートルに達したといいます。
中津川に架かる「下の橋」「毘沙門橋」「中の橋」「与の字橋」「上の橋」、北上川に架かる「明治橋」が流失しました。
これにより市内が分断される事態になりました。
また、被害は現在の岩手郡から一関市・宮城県北部まで、多くの地域に及んでいます。
岩手県南地域では、北上川の水位が14メートルに達した地域もあったといいます。
県下の北上川流域では、死傷者6名・住宅被害8,708棟・橋の流失124か所と、被害は甚大。
(※実際の被害はもっと大きかったと言われています)
この水害をきっかけに、北上川水系の河川改修が本格的に検討されます。
中津川においては、1912 (大正元) 年、治水工事が完了します。
そして、同年11月9日に「中津川治水碑」が建立されました。
この時「中の橋」は、擬宝珠が付いた橋から、洋風の橋に架け替えられます。
そして、擬宝珠は「下の橋」へ。
その後も何度か水害があり、時には橋の流失があり、堤防の整備が進められてきました。
昭和に入り、北上川に「四十四田ダム」、雫石川に「御所ダム」、中津川に「綱取ダム」が完成しています。