最近、ちょっと色々ありまして、人生で初めて「消費生活センター」のお世話になりました。いわゆる「ネットで稼げます」系に…。
39万円支払って、なんとか30万円は取り戻せました。ただ、今の私にとって9万円はかなり大きいのですが…。
とりあえず精神的に超疲れました。
岩手県のセンターは優秀で、NHKの全国放送にも取り上げられたという話を聞いたので、思い切って相談してみました。
しかし…
控え目な岩手県民の気質として、消費者トラブルに遭遇しても、相談せずに泣き寝入りしてしまう人が、かなり多いようです。
そんな私個人の話はさておき…
今回紹介したいのは「岩手県立県民生活センター (消費生活センター) 」の敷地内にあるこちらの石碑です。
岩手の盲聾教育発祥の地
柴内魁三
(しばない・かいぞう)
1879 (明治12) 年生まれ。盛岡尋常中学校 (現盛岡第一高校) を卒業後、陸軍士官学校に入学し、職業軍人になります。
日露戦争で被弾し、両目を失明します。
戦後は軍人恩給を受けて生活していましたが、盲目であっても社会の役に立とうと、東京盲唖学校教員練習課に入学します。
岩手盲唖学校の設立
1911 (明治44) 年、東北初の私立「岩手盲唖学校」を設立し、校長に就任します。
しかし、運営には苦労が絶えず、柴内は自身の軍事恩給を全額拠出し、鉛筆売りなどの事業を行い、運営資金の足しにしていたといいます。
1926 (大正15) 年、岩手県に移管。柴内がそのまま校長を続けます。退職後も「柴内愛育会」を作り、援助し続けたといいます。
これが現在の「岩手県立盛岡視覚支援学校・盛岡聴覚支援学校」の前身です。
盛岡市の水道事業
1928 (昭和3) 年、民間の水道事業所である「盛岡水道事業組合」を創設。これが盛岡市の上水道の始まりです。
この時点で、東北地方の県庁所在地において、水道がないのは盛岡市のみ。
大きな産業もなく、もともとお金がない県庁所在地。第一次世界大戦後の不景気もあり、市の財政は相当厳しかったようです。
そんな中、柴内は民間レベルで水道事業を起こします。これが後に盛岡市に買収されます。1934 (昭和9) 年、市による本格的な水道事業が開始されました。
購販利用組合病院の設立
柴内は、友人から上の橋際にあった私立病院の経営委託を受け、公共的なかたちで運営を開始します。
その友人は病気で倒れ、病院の経営状況も厳しかったといいます。
これが「岩手県立中央病院」の前身になります。
私立病院を公立病院に。この方式が今では県内各地にある、岩手県立病院の創設へと繋がっていきます。
傷痍軍人精神指導講師
日清・日露戦争で負傷した軍人の中には、精神的ショックから立ち直れない人が多くいたそうです。
当時の厚生省と陸軍省から依頼を受け、全国各地の軍事保護院をまわり、収容兵を激励し、更正を図ったといいます。
まさに「みちのくのヘレン・ケラー」とでも申しましょうか。
ちなみに、1937 (昭和12) 年6月29日、ヘレン・ケラーが「岩手盲唖学校」を訪れています。
恐らく多くの盛岡市民が、柴内という人物の存在を知らないと思います。
しかし、私達が便利に暮らせているのは、そういう人達の絶え間ない努力によるものなのでしょう。
やはり、楽して金儲けなんぞしようとしてはダメですね!
人の役に立つことをしないと!
消費者トラブルは急増しているようです。特にネットによるものは顕著。ぜひとも泣き寝入りせず、お近くのセンターに相談しましょう!
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