四十四田ダム
治水 (洪水被害の軽減等) と水力発電を目的として、北上川本流に建設された唯一のダムです。今年は完成から50年の節目。
市街地から北に約6キロ。憩いの場にもなっています。
「四十四田」は、安倍貞任という豪族の館があった場所 (現在の安倍館町付近) から、上流に数えて「44番目の沢」があったことに由来します。
「南部片富士湖 (なんぶかたふじこ)」とも呼ばれます。
「南部片富士」とは「岩手山」のこと。
静岡県側から見た「富士山」に似ていて、片側 (向かって左) が削げているようにみえることから、こう呼ばれるようになったとか。(※諸説あり)
周辺には、桜 (約600本) が植えられていて、春には花見が楽しめます。
「四十四田橋」が架かっています。
このダムの上流にあったのが…
松尾鉱山
1914 (大正3) 年に「松尾鉱業株式会社」が設立され、本格的な操業がスタート。
最盛期、1955 (昭和30) 年頃には「東洋一の硫黄鉱山」でした。周辺には、鉱山労働者、その家族などを含め、1万5千人もの人々が生活していました。
福利厚生施設が充実。
当時としては珍しい、水洗トイレ・暖房完備・鉄筋コンクリートによる集合住宅に、光熱費・水道代は無料。
小中高等学校・病院・図書館・映画館などもあり、会館には当時活躍していた芸能人を招いて公演を行うほど。
標高1,000mの場所に、当時の日本の最先端施設を備えた近代的な都市が形成され、「雲上の楽園」と呼ばれていました。
この企業が、岩手県及び周辺地域にもたらした経済効果は絶大でした。
製品搬出港となった「八戸港」の発展。鉱山からの多額の寄付が、盛岡高等工業学校 (現 岩手大学工学部) 設置の決め手になるなど、企業の地域貢献の先駆けだったといいます。
しかし、時代の波で1972 (昭和47) 年に閉山になります。
また、この鉱山から出る廃水は、近くを流れる「赤川」から「北上川」に流れ込んでいました。当時、盛岡市内を流れる「北上川」は常に黄土色に濁り、魚が住めない川になっていたといいます。
人々は近寄らず、「死の川」と呼ばれるほど。
1968 (昭和43) 年、特殊な構造を持つ、このダムが完成します。治水や水力発電の他、水質を改善させる機能もあります。
これにより、ダム以南については、ある程度清浄化されたといいます。
1981 (昭和56) 年「旧松尾鉱山新中和処理施設」(八幡平市内) が完成。多額の費用をかけて、現在も24時間365日、中和処理が行われています。
これにより水質は改善。盛岡市内の川に再び鮭が遡上するようになりました。
こちらがダム以南。盛岡市街地方面になります。
この場所、毎年7月に行われる「盛岡・北上川ゴムボート川下り大会」のスタート地点になります。
800艘以上のゴムボートが、北上川 (四十四田ダム~盛岡市街地) を下るレース大会で、「ギネス世界記録」に認定されています。
また、ダム周辺には複数の公園が整備されています。
下の写真は「四十四田公園」からの眺めです。
近隣には「岩手県立博物館」もあります。